正月遊び一覧 意味、由来も

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お正月の遊びといえば凧あげ、羽根つき、コマ回しなどいろいろありますが、遊び方は知っていてもその由来まで知っている人は少ないのではないでしょうか。ここではそんな正月遊びの意味、由来について紹介をします。

凧あげ

凧あげの起原は中国と言われています。中国では凧が占いや戦いの道具として使われており、日本に凧が伝わってきたのは平安時代とされています。当時は貴族の遊びとして鳶の形をした凧を揚げていたようです。

江戸時代になってから一般庶民のあいだでも遊ばれるようになったと言われています。庶民は、年初めに男の子の誕生をお祝いして健やかな成長を祈願するものとして遊んでおり、男の子の代表的な遊びとも言われていたそうです。凧が高くあがるほど願い事が神様に届くので願いが叶う、元気に育つと言われています。

江戸時代に凧あげが一大ブームとなった当時、人々のあいだではイカの形に似ていることから「イカあげ」として親しまれていたそうです。しかし、幕府により事故につながり危険だと禁止されてしまったため、庶民は「イカではなくタコだ」と言い訳をしたことから「タコ」の名称で呼ばれるようになり、「凧あげ」という名前がついたと言われています。

羽根つき

羽根つきは、7世紀頃から宮中で行われていた「毬杖(ぎっちょう)」という遊びが由来だと言われています。

毬杖遊びでは羽子板や羽根ではなく、先が「へら」のような形をした杖で毬(まり)を弾き、相手方陣地にその毬を打ち込む遊びです。この毬杖という遊びが変化し、杖が羽子板に、毬が羽根にそれぞれ置き換わり羽根つきに変わったと言われています。

羽根の先についている黒い玉はムクロジという植物の実が使われており、「無患子」という漢字から「子どもが患わない」として縁起のよいものと考えられていたそうです。そのため、羽根つきには1年の厄をはらい、子どもの成長(特に女の子)を祈願する意味が込められていると言われています。

打ち損じたとき顔に墨を塗るのも、魔よけのおまじないの意味があるそうです。

福笑い

福笑いの起源や由来は明らかでなく、どのような目的で始められたのかもはっきりしていないようです。しかし、明治時代からお正月遊びとして定着していったと言われています。

「笑う門には福来たる」の「門」には、家や家族という意味があります。いつもみんなで笑っている人の家には自然と幸福が訪れるという意味のことわざになります。

でき上がったその顔の表情を見て全員で笑い合うことから、新年のはじめから笑いがあふれることはめでたいとして、お正月遊びとして親しまれるようになったのではと伝えられています。

コマ回し

コマは、世界のいたるところにあり、起源や由来もさまざまあるようです。現在残っている世界最古のコマは、エジプトで発見された紀元前2000~1400年頃のものです。

日本へは奈良時代ごろに唐から高麗を経て伝わったと考えられています。高麗はかつて「こま」と呼ばれていたので「こま」という名前になり、中国で「獨楽」と表されていたことから、日本で「独楽」という漢字が用いられました。

平安時代には貴族のあいだで遊戯として親しまれ、子どもの遊びとして定着したのち江戸時代に庶民に広まっていったようです。

コマは、まっすぐに自立して回ることから「お金がよく回る」「物事が円滑に回る」として縁起物と考えられていたため、お正月遊びとして定着したようです。うまく回ると子どもが早く独り立ちできるとも言われています。

けん玉

けん玉は、フランス、ギリシャ、中国などに起源説があり、正確な由来ははっきりしていないようです。けん玉がお正月遊びとして定着した理由も定かではありません。

日本に伝わったのは江戸時代中期と言われ、シルクロードを通って長崎港から入ってきたとされています。鹿の角に穴をあけた玉を結びつけたもので、失敗したらお酒を飲むという、大人の遊び道具だったようです。

その後、明治時代になって、子どもの遊びとして親しまれるようになったと言われています。今のような形になったのは大正時代で、玉を太陽(日)に、浅い皿を三日月に見たてて「日月ボール」といいました。これが昭和初期に大ブームとなり、けん玉として子供達の定番おもちゃとなりました。

双六(すごろく)

すごろくは奈良時代に中国から伝わったのが由来と言われています。

もともとは「盤双六」という1対1で対戦し、白と黒の持ち駒をサイコロの目に合わせて動かし、相手の陣地に攻めていく早さを競うゲームだったようです。

現在主流となっている双六は「絵双六」と呼ばれ、これは盤双六の影響を受けて作られた日本独自のものと考えられています。絵双六のルーツに「浄土双六」があるのですが、これは極楽浄土への道筋を現したものでした。江戸時代になると絵双六が流行し、東海道五十三次を進んでゆく「道中双六」や「出世双六」などが人気をよび、お正月にも親しまれるようになったと言われています。

かるた・百人一首

かるたの起源は平安時代に貴族のあいだで行われていた「貝覆い(かいおおい)」と言われています。大蛤(おおはまぐり)の貝を二つに分け、それぞれに和歌の上の句と下の句を書き、その二枚を探し出し合わせるという遊びでした。これが、今の百人一首に通じる「歌かるた」と言われています。

もともとは宮中の遊びでしたが、江戸時代の木版画技術によって、絵がかかれた歌かるたが庶民に広がっていきました。そして、江戸後期以降には百人一首のためだけの会が開かれるなど人々のあいだで親しまれるようになり、お正月遊びとして定着したと考えられています。

かるたの語源は、ポルトガル語で手紙やカードを意味する「カルタ(carta)」と言われています。安土桃山(天正)時代に、ポルトガルの宣教師によって「南蛮カルタ」が日本に伝わりました。この南蛮カルタは、トランプに近いものであったようです。

天正の時代に三池(現・福岡県大牟田市)の地で日本初の国産かるたが作られました。これを「天正かるた」と呼びます。江戸時代には「天正かるた」に改良を加えて日本独自の「うんすんかるた」が誕生し、平安時代の貝合わせと結びついてかるたができたと言われています。江戸時代後期に子どもたちがひらがなやことわざを覚えられるようにと、「いろはがるた」が作られたそうです。

お手玉

お手玉の起源は古代ギリシャで、羊の骨を使った遊び「拾い技」だったといわれています。拾い技は、何個かのお手玉を床または地面にばらまいておき、手元にある1個のお手玉(親玉)を上に投げあげている間に、ばらまいたお手玉を1個、2個と取っていったり、手で作った橋の下をくぐらせたりして遊ぶ方法。

日本では奈良時代に中国から伝わり、聖徳太子がお手玉遊びをしていたという説もあります。平安時代になって石を使った「石なご」遊びが一般に広がりました。現在の形になったのは江戸時代に入ってからで、袋の中に小豆、粟、ひえ、大豆などを入れたお手玉になりました。

おじいちゃん、おばあちゃんが孫に教えるなどして、世代を超えて遊べるため、お正月には広く楽しまれてきました。

だるま落とし

だるま落としの歴史は定かではありませんが、だるま自体は禅宗の祖・達磨大師をモチーフにしています。だるまは、転んでも起き上がることから縁起物とされています。

しかし、だるま落としのだるまは転んでも(落ちても)起き上がりませんから、「転ばない(落とさない)ように」=「新たな1年に災いや困難がないように」と願いを込めて遊ばれるようになったと言われています。

めんこ

めんこの歴史は、江戸時代に始まったと言われています。江戸時代には粘土で人の顔(面)をかたどった「泥面子(どろめんこ)」が作られ、ここからめんこという名になりました。現代のように起こすものではなく、めんこ同士をぶつけたようで、魔除けの意味もあったそうです。

明治時代に鉛製めんこが登場すると、めんこの存在は大衆に普及するように。しかし鉛害が中毒を起こすことで問題になると1900年(明治33年)から鉛の使用が禁止、大正時代には紙のめんこが主流になります。丸い「丸めん」、長方形の「角めん」があり、相撲力士・野球選手・漫画のキャラクターなどが印刷されてブロマイド的な要素もあり、男の子に絶大な人気で、こうして男の子の代表的な遊びとして浸透することになりました。

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